2001年11月
なお☆ヤン(Gt)とアニキ(Vo)の兄弟によってGuilt 4orが結成される。ベースにはなお☆ヤンの長峰中学校時代の友人タッカンが加入。タッカンはギタリストでもありなお☆ヤンの中学時代のギターの師匠であった。ドラムには出会い系サイトで知り合ったふーさんが加入。初のオリジナル曲「B wire」を皮切りに徐々にオリジナル曲を増やし始める。
2002年4月
結成間もないギルトフォーが見つけた活動の場は、2000年に神戸で立ち上がり少しずつ盛り上がり始めていた社会人音楽サークル「OB&OG(OldBoy&OldGirl)」略してOBG。Guilt 4orデビューのステージは神戸三宮Art Houseで行われた同サークルのイヴェントライヴだった。このOBGで多くの仲間と出会う。バンドは彼らへの感謝を「Shout It Up!」という曲にした。今もプレイし続けているギルトフォーの代表曲である。
なお☆ヤンは今では考えられないほど丁寧なギターソロを弾き、大きな話題となった。
2002年8月
ふーさん(Dr)が一身上の理由にて脱退。OBGで知り合った後任のドラマーはせっちが加入する。
2002年12月
西宮苦楽園YELLOW JACKETSで行われたOBGのイヴェントにて2回目のライブ。これを最後にタッカン(Ba)脱退。「彼となお☆ヤン(Gt)とアニキ(Vo)は、長い付き合いだからお互いを良く知っています。だからこその譲れぬ想いが、きっとそれぞれあったのでしょうね。」と、はせっちは思った。
2002年12月
アニキが出会い系サイトにて知り合ったベーシストゆういちが加入。
2003年
なお☆ヤンのみならずはせっち、ゆういちも作曲を手掛け始める。アニキの仕事が忙しく、兵庫県姫路BARRELでのライブは本番のみ出演し、終われば新幹線で職場に戻るということもあった。
2003年12月
オリジナル曲が増えてきて、神戸阪急六甲Maiden Voyageではカバーよりもオリジナルを多く演奏した。いよいよ勢いがつき、この頃から徐々に活動がペースアップして行く。
2004年6月
神戸新長田SITE KOBEでのライブを皮切りに2ヶ月に1回ペースでライブを行なう。肉体的にも経済的にも辛くなる。
2004年7月
マネージャーよねっちが参加しライブのブッキングや宴会場の手配など様々な面で助けてくれるようになる。
2004年8月
神戸三宮BACK BEATのブッキングライブ打ち上げ後、なお☆ヤンは電車で寝てしまい、滋賀県山科駅で終電がなくなりタクシーにて大阪まで帰宅する。後年は知恵がついてネットカフェに泊まるようになる。
2004年10月
大阪船場Club Mercuryでのイヴェントに初出演。当日になってメンバーが仕事の都合で間に合わず、ゆういち恐怖の1人リハが行なわれる。対バンの女性ボーカリストからも哀れみの目で見られる。その日のイヴェント打ち上げでゆういちは泥酔、共演した硬派なメタルバンドのアックスボンバーさんが自分と同じ柔道家だと聞いて興奮し、その場で床に寝そべってヨシ来い!さあー来い!と親善寝技勝負を挑んだ…が、苦笑と共にスルーされ、仕方なく起き上がり席に戻る。
2004年12月
OBGのイヴェント、神戸新長田SITE KOBEでは、マネージャーのよねっちをリードヴォーカルに迎えたユニット、ナイトロジェン・マスタードで出演。ネーミングはまたしてもアニキ。由来はあるとの事。ギルトフォーは、よねっちの為なら何でもしようと思った。
2005年2月
完全自主制作、初のシングル「Shout it up!」が完成。1枚200円にて50枚が完売したという。
2005年4月
クラブマーキュリーで出会ったバンド「迷G」のきーさんにご厚意を頂き、Guilt 4or初のラジオ出演(西宮SAKURA FM)。マネージャーよねっちも参加。しかしアニキの下ネタ発言にて一部がカットされる。録音で良かった。仕込みのコーラスで笑いを取り、シングル曲「Shout it up!」がオンエアされる。後日の放送日にはみんなで聴こうと、はせっちの父親所有のキャンピングカーに集まる。しかし、ちょうどその日はせっちは風邪で発熱。グッタリしており、あまり盛り上がらなかった。
2005年5月
今度は神戸コミュニティFM局FM MOOVより何故かGuilt 4orにラジオ番組レギュラー出演の話が寄せられるが、協議の結果メンバーは本職が多忙なため却下となる。アニキの下ネタ発言も懸念材料だった。
2005年6月
大阪御堂筋線梅田駅のホームで、酔いつぶれて行き倒れていたなお☆ヤンを偶然通りがかったアニキが発見し介抱する。
「 第3期の終わり」へ続く