2005~2010年 第3期の終わり

2005年6月
大阪千日前アナザードリームにて、ダンシングじいさんが 登場した。ギルトの演奏開始後1~2曲で最前列に近づいて来て、ゆらゆらと踊り始める。ずっと踊っている。とても目立つ上、あまりロックなガッツのある絵 にはならず、力が抜ける。メンタルが弱くてワガママなアニキは集中力を失った。ぶち壊されたとこぼしていたが、「あの人はハコの有名人で、本当にいいバン ドの時にしか踊らないそうだよ」と誰かに適当な事を言われて少し機嫌が治る。

ダンシングじいさん(左下)
ダンシングじいさん(左下)

 

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2005年6月
ちょっと憧れていた難波ロケッツのブッキングに入る事ができる。嬉しくて何かせずにはいられなかった為、ライヴ当日ゆういちは地元名古屋から写真が趣味の旧友ムマイ氏を呼び寄せる。バンドはなんばパークスを徘徊してプロモーション用のフォトシューティングを行った。なお☆ヤンがマッスルをパンプアップさせる為撮影直前にいちいち腕立て伏せを行い、面倒臭かった。

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カメラマン、ムマイ氏が撮ってくれたギルトは、ダメさがすっかり隠れてカッコ良かった。
カメラマン、ムマイ氏が撮ってくれたギルトのライヴ写真は、ダメさがすっかり隠れてカッコ良かった。

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2005年8月
なお☆ヤン、父性の復権を目的としたバーベキュー「なお☆キュー」が催される。家族サービス不足の一括返済を目論んだが、終わってから妻と子供達はなお☆ヤンを忘れて帰ろうとし、荒涼感が漂った。なお☆ヤンの髪が濡れ、薄くなっていたことが判明する。

なお☆キューを企画してくれたギルトの親友ジード
なお☆キューをプロデュースしてくれたギルトの親友ZEED

 

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2005年12月
プロも顔負けの、関西を賑わす名立たるアマチュアミュージシャンが集まったコミュニティ「関西フレンドシップ」にドサクサで紛れ込み、オムニバスアルバム「Kansai Friendship」企画でZEED氏とアニキのツインヴォーカル曲「Course Again」を収録する。レコ発ライヴではセクシーなダンサーと共演し、ご満悦だった。

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2006年9月
大阪梅田アムホールにて、「1番観客を多く集めたバンドに賞金10万円」という企画のライブイベントが行われる。いくつもの出演バンドの中で、観客が2人だったGuilt 4orは2位になる。ちなみに1位は6人の歌続(かぞく)だった。

2006年11月
神戸三宮Blue Portにて馴染みのOB&OGライヴに出演。出番前になお☆ヤンはトイレに携帯電話を落として壊してしまう。以下の写真はトイレに携帯電話を落としてしまった後のなお☆ヤンである。ほとんど姿勢が変わらない。

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2006年12月
ゆういちはギルトフォー加入当初から、なお☆ヤンの曲芸的ステージングに負けぬよう変態ベーシストを目指すと決意していた。すべての曲をスラップで弾き続けようとしたがそれは無理だった。何をもってベーシストを変態と認められるのか、メンバーはよくわからなかった。時が経ち、ホームページ運営などバンドの広報を担うようになっていたゆういちはある日、真面目にやってもモテないからという理由で、ギルトフォーをハードロックバンドからコミックバンドへ路線変更すると宣言する。その展開もメンバーにはよくわからなかったが、別にわざわざ宣言しなくても、元からそうだった。

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2007年1月~7月
ギルトフォー冬の時期 なお☆ヤンは壊してしまった携帯電話を店員に薦められるままスマートフォン(WindowsMobile)に買い換えたが、メールの使い方がわからず、メンバーと連絡が取れなくなる。それが理由でバンドは約6ケ月間活動が停止した。

2007年7月
大阪船場クラブマーキュリーにて緊急ライブ決行。何もかもが急過ぎて写真も残っていない。確かライヴをやったよね、というボンヤリした記憶のみである。ギルト復活!かと思われたがライブ後はまた4ヶ月間活動せず。

2008年3月~
遂に重い腰を上げ、活動を再開。その取り掛かりはレコーディングと決定。鈍った腕を磨き直し、合ってるのか合ってないのか分からない演奏を見つめ直し、一回り大きな存在になる為である。

はせっちがクリックスタジオに持ってきてそれに合わせて演奏を続けた。おかげでギルトフォーは鉄壁のテンポ感、リズム感を身につけた。

アニキも絶対音感を持つゆういちの彼女かこ(key)のボイストレーニングによって音痴ではなくなった。かこには「アニキは巧くないけど素直だから伸びる」と評価された。43歳にして伸び代を残す男であった。

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余談であるがギルトコミックバンド化宣言に前後して、実はゆういちは仕事の環境と共に音楽以外のプライベートでも大きな変化の中にあった。OB&OGライヴの日、初めてゆういちの可愛い彼女かこを紹介して貰ったメンバーは我が事のように喜んだ。

2006

2008年11月
Rough Diamond 、B wireのレコーディングが開始される。まずはドラムからレコーディングを行い、その後、べース、ギターをレコーディングする。

2009年4月
ゆういちのじゃがいもくん観察日記が開始される。特にバンドが関与していたわけではない。

2009年6月
ゆういちのじゃがいもくんがアブラムシに襲撃され枯れてしまう。バンドも、とても残念に思った。かろうじて小さなじゃがいもが収穫された。

2009年6月
ゆういちは かこ とめでたく結婚し、新婚旅行に行った。そして帰ってきた。

2009年7月
アニキは吹田スタジオYOUにてオペレータつきでB wire、 Rough diamondのボーカルレコーディングを行う。自身の限界に挑んだアニキは後半には声が枯れ、かつ裏返り、オペレータさんに心配された。

日を改め、数段格を落として今度ははせっちがオペレータとなりノートPCでコーラスを収録。場所は尼崎ベースオントップ。はせっちのミスリードにより昭和歌謡のような甘いコーラスが録れてしまう。収録後程なくして、はせっちは音声データを紛失した。

B wire、 Rough diamondの2曲は、CDになる事も無くメンバーのiPod内にだけデモ音源として残された。

2010年7月
ゆういちはベースを退任、監視者となる。ひとつ上のステージへ行った。
その穴を埋めるサポートベーシストとして、関西アマチュア界で名手と謳われるちゅーやん氏が奇跡の参加。

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第4期が始まる。

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